住まいは、横浜の歴史を守りながら、未来へ。

1800年代(中期)田中平八(天下の糸平)の所有と活躍

田中平八(天下の糸平)
横濱紅葉坂レジデンス計画地の大部分は田中平八が所有していました。田中平八は、1834年(天保5年)、信州赤穂(長野県駒ヶ根市)で産声をあげた。25歳頃には黒船の来航で賑わいはじめた開港直前の横浜に出向いて商売を始めた。仕入れた商品を積んだ船が難破し、全財産を失うといった困難に何度も遭遇したが、持ち前の強靭な精神力で消沈することもなく、信州から生糸を仕入れる機会を得て輸出に成功する。32歳になると、横浜南仲通二丁目に「糸屋」の商号で店を構え「糸屋の平八」「糸平」として、世に知られる人物へと飛躍を遂げた。起業家・田中平八のサクセスストーリーは利益追求だけでは終わらず、横浜に自らの費用でガス灯も設置するなど、公益にも大いに力を尽くし40歳になると東京へ進出する。株の売買では「兜町の飛び将軍」と謳われるまでになるとともに、第二国立銀行の発起人にも名を連ね、自らも第百十二銀行や田中銀行を興すなど、金融界でもその辣腕を振るった。1884年(明治17年)に51歳で没するまで、幅広い活躍を続け、様々な功績が評価されて、没後の1891年(明治24年)には、東京向島に伊藤博文の書による「天下之糸平」と彫られた巨碑が建てられた。
天下の糸平 田中平八氏/
1834年(天保元年)〜1884年(明治17年)
1866年(慶応元年)に開店した横浜南仲通「糸屋」

1800年代(後期)若尾幾造の所有と活躍。井伊直弼が日米和親条約を締結。

若尾幾造
兄・若尾逸平から財産分与(4万円)を
受け取る弟・若尾幾造/
1829年(文政12年)〜1896年(明治29年)
(南アルプス市 春仙美術館所蔵)
藤沢の若尾別邸にあった先代角左衛門の
銅像前にて 二代目若尾幾造(左)
(横濱開港資料館所蔵)
甲州中巨摩群在家塚村(現在の南アルプス市)の里正の三男に生まれた。1859年(安政5年)、兄・逸平とともに開港まもない横浜へ出て生糸売込商をはじめた。明治に入り事業は拡大したが、1875年(明治8年)生糸相場が暴落したため、財産を分け兄逸平は国にとどまり専ら産地買い付けに奔走した。幾造ははじめ弁天通の石川屋、次いで本町三丁目の芝屋清五郎方を定宿として、生糸の売込に従事するかたわら綿花および砂糖取引商をも営んだ。1876年(明治9年)に分籍して独立し本町三丁目(現在の四丁目)に店舗を構え、これが横浜若尾家のはじまりとなり、若尾家の発展に大きな意味を持ち、横浜商界の大立て者に成長、京浜方面の銀行・企業の経営に参画する。1881年(明治14年)に設立された聯合生糸荷預所では原・茂木・平沼等に次ぐ有力な株主になった。1889年(明治22年)、第一回市会議員選挙に当選。翌年には横浜蚕糸貿易商の副組長に就任、1893年(明治26年)には、横浜蚕糸外四品取引所の創立委員に加わり、翌年七月にその開設をみた。また、横浜鉄道株式会社設立人の一人であったが、生前までに実現をみるに至らなかった。
井伊直弼
1853年、ペリー来航。1854年、日米和親条約締結。それから5年、1858年に結ばれた日米修好通商条約の舞台もまた横浜でした。この歴史的な条約の調印に踏み切ったのが井伊直弼。「横濱紅葉坂レジデンス」の裏手に位置する掃部山(かもんやま)公園には、彼の銅像が佇んでいます。掃部山公園の土地は1882年頃、井伊家の所有となり、1909年に初代銅像が完成。第二次大戦中の金属回収指示により一時は取り払われましたが、1954年に再建。公園の名は、井伊が掃部頭(かもんのかみ)直弼と名乗っていたことに由来します。
掃部山公園(平成20年4月撮影)
井伊直弼像(平成20年9月撮影)

1859年(安政5年)神奈川奉行所の設立

神奈川奉行所
西区の戸部。紅葉坂を登って行くと、右手に青少年会館や県立図書館、県立音楽堂などの建物が姿を表し、その片隅には神奈川奉行所跡の碑が佇んでいる。神奈川奉行所は開港直後の1859年(安政5年)6月2日に設立され、現在で言うところの警察と役所を合体させたような機能を持っていた。運上所が主に外交関係や税関業務を行っていたのに対し、奉行所は開港間もない横浜で専ら行政事務や外国人遊歩区域内の風俗取締、裁判や農民・町人の出願事項の受付・処理などを行っていた。その所在地から「戸部役所」と呼称され、運上所と共に行政を司っていた。急な勾配の紅葉坂を上っていくことは不便であったが、それにもかかわらず場所を戸部にした事には理由があった。開港場の中央から離れた場所に設置する事で、外国人に内政を秘密にできたからである。また、万が一、外国側との変事が起きた場合には横浜の町を眼下にできる土地柄、城砦へとその機能を変える事が容易であった。これにより、野毛を含む戸部地区には官庁街が出現した。それまでの住民は移転する事を余儀なくされ、生業を失う者も多かった。これに対する補償金もあったが3年待たないと支払われなかったと言われている。
野毛にあった運上所や奉行所で働く
役人の役宅を写した最古の写真
神奈川奉行所跡

1872年(明治5年)新橋・横浜(現桜木町)間の鉄道開通

日本初の鉄道開通
一号機関車の名で広く知られていた蒸気機関車(形式150)
1869年(明治2年)鉄道敷地の埋立図
日本に鉄道を走らせる構想は、すでに幕末からありましたが、実現せず、明治新政府が1869年(明治2年)、その建設を正式に決定しました。それは新しい首都の東京と、古都の京都、商都大坂を結び(本線)、これらの都市と開港場の横浜・神戸との間に支線を設置するというものでした。そして、まずは工事が容易な支線の京浜間と阪神間から着手し、1872年(明治5年)年9月12日(陽暦10月14日)、東京の新橋と横浜(現桜木町)間を53分で結ぶ、全長距離18マイル(約29Km)、単線、中間駅4(品川・川崎・鶴見・神奈川)駅の日本初の鉄道が開通した(大坂・神戸の開通は明治7年)。開通式典の翌日から一般の営業運転が開始され、開通当初は一日9往復(午前4往復・午後5往復)で運賃は三等級制で上等1円12銭5厘、中等75銭、下等37銭5厘お米1升が約4銭の時代なのでかなり高額な運賃であったこと確かなようです。列車の編成は蒸気機関車と客車8両(上等1、中等2、下等5)でした。新橋・横浜間を走った蒸気機関車は全部で10両。全てイギリス製で150形は1両だけで最初に上陸したことから「1」の番号を付され1号機関車となった。

1900年〜(明治33年〜)移り変わる紅葉坂・紅葉橋の姿

紅葉坂・紅葉橋
昔、宮ヶ崎と呼ばれたこの辺り一番の坂が紅葉坂である。古くは紅葉の名所として知られた。神奈川奉行所設置の際、さらに紅葉が移植され、1872年(明治5年)に紅葉坂の名前がつけられた。丘そのものも紅葉丘と呼ばれるようになったが次第に枯れはじめ、関東大震災で完全に紅葉が消失してしまったという。開港時の神奈川運上所と神奈川奉行所を結ぶ全長約2.2kmの長く急な坂で行き来するだけでもかなりきつい道だったようである。紅葉橋はいつ建設されたかは定かではないが命名が紅葉坂と同じ1872年(明治5年)ということからその前から存在していたと思われる。高島町付近を走る帷子川支流の石崎川と大岡川とを結ぶ桜川という川に架けられており、戦後すぐの頃、この川に水が流れなくなり、ここに住む人がでてきたため整備し道路に変わったそうです。現在、紅葉橋の下を走る道路を16号バイパス桜川新道というのは昔あった川の名前からきている。
1900年〜1922年工業招致期の頃に
坂下から海側を撮影

1912年〜(大正元年〜)大正時代以降の所有者の変遷

土地所有者の変遷

明治時代よりこの地は大きく4つに区分され、中でも若尾家が約8割以上を所有し、代々継承してきた。一方で若尾家が所有していない土地は個人、銀行、神奈川県などにより売買を繰り返し分筆と合筆も行われてきた。1944年(昭和19年)には若尾幾太郎が所有していた土地約8552.41㎡(現在の地積)を日本造船(株)に売却することとなり、若尾家が占める割合は大幅に減少したものの約1784.63㎡(現在の地積)という大きな土地を依然として所有していた。売却した土地は一時的に日産重工(株)が所有したが1947年(昭和22年)に個人へ移ると、2年後の1949年(昭和24年)には旅館・紅葉閣とダンスホールのさくらポートが建設された。その後高度経済成長を迎える1956年(昭和31年)には神武景気で日本経済が本格的に復興する中、日本住宅公団に売却され1960年(昭和35年)には花咲団地が建設された。

1949年(昭和24年)旅館・紅葉閣 ダンスホール・さくらポートの建設

1958年(昭和33年)花咲団地の完成

2010年(平成22年)「横濱紅葉坂レジデンス」プロジェクト始動

株式会社新日鉄都市開発

製鉄所づくりは、街づくり。 私たちには100年を超える街づくりの実績があります。

1901年、官営八幡製鉄所の東田第一高炉に火がともり、日本の近代化がスタートしました。私たちは100年余にわたる時間の中で、住・職・遊・学のすべてがそろった街づくりの実績を有し、またここ数十年にわたり展開している大規模地域開発、都心の再開発などを通して独自のノウハウも蓄積してきました。街づくりのスタートは、関係する皆さま一人ひとりの意見を集約して、カタチにしていかなければなりません。私たちは、地域の皆さまに喜ばれる持続発展する街を目指しています。地域にはその土地固有の歴史、文化、自然、景観があります。そういった皆さまの土地への思い、こだわり、愛着を街づくりにどう生かしていくかということを、いつも心がけています。歴史、文化を継承し、自然、景観と共生する街づくりこそ、本当の「人を大切にした街づくり」だと考えています。

ザ 横浜タワーズ
横浜ステーションプレミア

三菱地所株式会社

人を、想う力。街を、想う力。

街に、住む人。働く人。訪れる人。そのひとりひとりの時間が、豊かでみち足りたものになるように。さまざまな人との出会いが、心ときめくものになるように。私たち三菱地所グループは、さまざまな空間やサービスに求められる本質的な価値を、ずっと追求してきました。これからも時代の先を見通して、お客さまひとりひとりの声に誠実に耳を澄ますことで真に求められる価値を創造していきます。そして、私たち自身もその仕事を通してワクワクし、ほんとうの感動をお客様と共有したいと願っています。そのために、私たちは常にチャレンジを続け自分たち自身も変わり続けていきます。

横浜ランドマークタワー
MMタワーズ フォレシス